だいぶ前の8月6日の日記

 祖父は農夫だった。キュウリだのナスだのを作って出荷し、たまに大叔父が家の敷地内でやっていた鉄工所を手伝っていた。

「10代のころは外国で汽車に乗っていた」と祖父は話した。満洲というところで、鉄道員だったと。車掌をやって、いつか運転士になるつもりだった、と。

 

 祖父がいつ日本に戻ったのか、詳しいことは知らない。1945年の8月6日の朝は自宅に居たようだ。その日は勤労動員で、彼の父と妹は市内に出かけて行った。彼らはそのまま戻っては来なかった。祖父は彼らを探しに行き、被曝した。僕にはその時のことを「雨が黒かった」とだけ話した。

 

 祖父がその日何を見たのか、ついに語ることはなかった。「ピカッとして、ドーンときた」とだけ、客間に飾ってある僕の曾祖父らの遺影の下で、幼い僕に話したことを覚えている。死ぬまで毎年、8月6日は朝から爆心地にある公園へ出向いた。祖父は一度も、誰とも連れ立っては行かなかった。一人で行って、帰ってきた。


 ある年の8月6日、僕はお盆前ということもあって父と母と弟と祖父の家にいた。その日が何の日なのか、まだ知らなかった。5歳か、そこら。夕方、1人で帰ってきた祖父は、孫たちを呼んで軽トラの荷台に乗せ、農道を走りだした。舗装されていない白く砂っぽい地面は盛大に白い土煙を巻き上げる。白い軽トラの荷台の上で、7人の孫たちは狂喜した。

 

 軽トラが農地に着くと、刈り取られた雑草や、収穫後のキュウリやナスのツル、壊れた木箱などがあり、孫たちに声をかけて集めさせ、僕の数歳年上の従兄弟にマッチと火種を渡して火をつけさせた。

 落ちつつある8月6日の夕日を背に、雑草やゴミが燃え始めた。陽が落ち、あたりが真っ暗になっても火は燃え続けた。祖父は一言も話さず、火を見つめていた。

  

  祖母は彼女の父の仕事の都合で東京で幼少期を過ごした。戦争が激化すると曾祖父の実家へ越す。縁故疎開だったのか、曾祖父の仕事もあってのことなのか、今となってはよくわからない。1945年8月6日は女学校で僕の大叔母らと勤労奉仕に動員されていた。大叔母らと異なり、彼女は帰ってきた。大きな怪我はなかったというが、その日を境に体調を崩した。

 

 祖父との見合いを経て結婚した後も体調が思わしくなく、入退院を繰り返していた祖母が癌で死んだのは42歳の時だ。父は祖母の料理というものを食べたことがないと話す。祖母も、祖父も、被爆者手帳を持っていたと知ったのは祖父が死んだ後だ。

 もちろん孫たちは祖母の顔を写真でしか知らない。

 

  祖父は孫たちを軽トラに乗せた日から6年後に癌で死ぬ。大連をもう一度、見てみたかった。と祖父は言っていた。片田舎で農夫の子として産まれた祖父にとって、外地で鉄道に乗る日々はどんなものだったのだろうか。満洲国について知れば知るほど複雑な気分にはなるが、10代後半から20代前半を過ごした地というのは、誰にとっても特別なのだろう。

 

  祖父がキュウリやナスを育てた農地も、舗装されていない白っぽい砂地の農道も、住宅街になっていて今はもうない。

 

 墓は農地だったところの裏手に今もある。林立する墓石の命日は大半が昭和二十年八月六日と刻まれている。