3/26 買占めと牙の時代

 朝電車に乗った瞬間から人が少ない。どうやら昨日の小池都知事の会見で、「明日は在宅勤務にしようや」ということになった会社が結構あるようだ。

 

 僕の会社は通常運行。相変わらず咳がでるので薬を飲む。あたまがちょっとぼわんとする。会社で息子さんや娘さんが留学している人たちが、昨日帰ってきたという話題で盛り上がっている。今日以降の帰国だと2週間隔離されるんだよね。。

 帰ってきたお子さんたち、自宅とかで大人しくするのかな…。ちょっと気になったけど突っ込んだりはしない。

 

 夕方娘を迎えに保育園に行ってスーパーで買い物しようとしたら、結構備蓄できそうな食料が棚からなくなっている。

 都市封鎖って言ったって、災害じゃないんだから、食糧生産と物流はそのまんまでしょうが、イタリア人だって買い物はしてるよー。と思いながら、ついつい余計な買い物をしてしまう。

 

 塩辛、チーズ、シリアル、牛乳、チョコ…今なくてもいいんだけど、微妙に日持ちがするものを買ってしまった。たぶんみんなこういう感じで、品薄が発生しているんだろう。ちょっと恥ずかしくなる。

  

 娘から、「なんで人間は牙がないの?」と質問されて考え込む。

「大昔の人にはあったんだけど、使わないから小さくなってしまったんだ」というの、やっぱり正確ではないよな。。しかし、時間の感覚もまだあやふやな4歳に、進化を説明するの、難しすぎない?

 

 夜は薬を飲まなくても元気!あしたもこの調子でいけたらいいな!

3/25 在宅勤務

 在宅勤務だが風邪が思わしくなく、仕事は全然進まない。夕方になって娘を保育園へ迎えに行って。スーパーでお買い物。妻は残業して1人でご飯を食べて帰るというので、昨日買えばよかったなと思ったパック寿司を買って娘と2人で食べた。

 

 風邪のこともあって、コロナウイルスが気になって仕方なくなっている。東京の患者数も不気味で、いつヨーロッパのようになってもおかしくないのだろう。

 久しぶりに大きな駅でゆっくりご飯を食べた妻は若者が街にあふれていることに驚いていた。タピオカミルクティーを買うために詰めて並ぶ若者たち。。

 

 平穏な日々が続くことを祈る。

だいぶ前の8月6日の日記

 祖父は農夫だった。キュウリだのナスだのを作って出荷し、たまに大叔父が家の敷地内でやっていた鉄工所を手伝っていた。

「10代のころは外国で汽車に乗っていた」と祖父は話した。満洲というところで、鉄道員だったと。車掌をやって、いつか運転士になるつもりだった、と。

 

 祖父がいつ日本に戻ったのか、詳しいことは知らない。1945年の8月6日の朝は自宅に居たようだ。その日は勤労動員で、彼の父と妹は市内に出かけて行った。彼らはそのまま戻っては来なかった。祖父は彼らを探しに行き、被曝した。僕にはその時のことを「雨が黒かった」とだけ話した。

 

 祖父がその日何を見たのか、ついに語ることはなかった。「ピカッとして、ドーンときた」とだけ、客間に飾ってある僕の曾祖父らの遺影の下で、幼い僕に話したことを覚えている。死ぬまで毎年、8月6日は朝から爆心地にある公園へ出向いた。祖父は一度も、誰とも連れ立っては行かなかった。一人で行って、帰ってきた。


 ある年の8月6日、僕はお盆前ということもあって父と母と弟と祖父の家にいた。その日が何の日なのか、まだ知らなかった。5歳か、そこら。夕方、1人で帰ってきた祖父は、孫たちを呼んで軽トラの荷台に乗せ、農道を走りだした。舗装されていない白く砂っぽい地面は盛大に白い土煙を巻き上げる。白い軽トラの荷台の上で、7人の孫たちは狂喜した。

 

 軽トラが農地に着くと、刈り取られた雑草や、収穫後のキュウリやナスのツル、壊れた木箱などがあり、孫たちに声をかけて集めさせ、僕の数歳年上の従兄弟にマッチと火種を渡して火をつけさせた。

 落ちつつある8月6日の夕日を背に、雑草やゴミが燃え始めた。陽が落ち、あたりが真っ暗になっても火は燃え続けた。祖父は一言も話さず、火を見つめていた。

  

  祖母は彼女の父の仕事の都合で東京で幼少期を過ごした。戦争が激化すると曾祖父の実家へ越す。縁故疎開だったのか、曾祖父の仕事もあってのことなのか、今となってはよくわからない。1945年8月6日は女学校で僕の大叔母らと勤労奉仕に動員されていた。大叔母らと異なり、彼女は帰ってきた。大きな怪我はなかったというが、その日を境に体調を崩した。

 

 祖父との見合いを経て結婚した後も体調が思わしくなく、入退院を繰り返していた祖母が癌で死んだのは42歳の時だ。父は祖母の料理というものを食べたことがないと話す。祖母も、祖父も、被爆者手帳を持っていたと知ったのは祖父が死んだ後だ。

 もちろん孫たちは祖母の顔を写真でしか知らない。

 

  祖父は孫たちを軽トラに乗せた日から6年後に癌で死ぬ。大連をもう一度、見てみたかった。と祖父は言っていた。片田舎で農夫の子として産まれた祖父にとって、外地で鉄道に乗る日々はどんなものだったのだろうか。満洲国について知れば知るほど複雑な気分にはなるが、10代後半から20代前半を過ごした地というのは、誰にとっても特別なのだろう。

 

  祖父がキュウリやナスを育てた農地も、舗装されていない白っぽい砂地の農道も、住宅街になっていて今はもうない。

 

 墓は農地だったところの裏手に今もある。林立する墓石の命日は大半が昭和二十年八月六日と刻まれている。

3/24 風邪ぶり返す

 夕方、お仕事で1コ上の先輩と、お客さんのところに行って話をしているとだんだん具合が悪くなってきた。

 帰りの電車で慌てて薬を飲む。あーもう最悪。また風邪かよ。。

 

 明日は在宅勤務だが、めちゃサボって寝ようかと思う。。素直に休んだ方が良いかもしれないが…。

 今日の夕飯は各自で済ませろという連絡が妻からあったので、1人でカレーうどん屋さんへ入った。美味しかったけど、1,500円くらいして泣きそうになってしまった。こんなことならスーパーで400円の鉄火巻き買えばよかった。

 家に帰ると、妻が何故かまた唐揚げが食べたくなったとかで、今日も唐揚げを買って食べていた。それで、僕は連日唐揚げは嫌だろうなと思ったということで、夕飯は各自済ませろになったということだった。昨日と同じ唐揚げ店で同じ唐揚げを買っていた。

 

 ときどき、妻も変な人だよなと改めて思う。

3/23 3連休終わる

 とりあえず風邪はそこそこ良くなって、薬は飲まずに済んでいる。3連休明けはぼんやりしてしまってお仕事は全然進まない。まあしゃあねえ!

 

 保育園から娘を連れて帰る。お腹が減ったと騒ぐので駅前で鶏の唐揚げを買って今日の夕飯にすることにした。

 唐揚げが出来上がるまでたこ焼き屋の前で待っていると、娘が「たて」「たて…」と連呼するので、どうしたのかと思ったらたこ焼きの「たこ」だった。この上の横棒と下の棒が繋がっているから、「て」に見えていたのだ。

 

 家に帰って庭木に水をやっていると近所に住む4歳の男の子がやってきて、「なにやってんの?」と一言。「水やりだよ」と答えると「なんで?」うーん難しいな。

 また娘と遊びたいとのことで、娘に伝えておきますと言ってバイバイする。

2020/3/22 咳終わる

 3月2日に不調を感じて以来、20日に渡り咳と微熱、倦怠感が続いていたが、この日ようやく終わった。薬を丸一日飲まなかったのは久々ですこし気分が良い。

 

 コロナウイルス騒ぎの時期だったこともあり、この体調不良にはけっこう不安になった。妻は妊娠してるし、60代半ばの父は同居してるし。

 咳がやたらと出て、熱はそこまででもないという症状も不安を煽る。症状が出て、妻と父に同時にバイキン扱いされた時は悲しくなってしまった。2人ともこの件で死後さばきにあうだろう。

 

 昨日も3日連続で庭仕事をしていたら終盤フラフラになってしまった。そうしたところに、妻から娘が保育園の園庭で使う砂だらけの靴を二足洗えという指令が出てもっとぐんなり。

 

 やっていたら娘が壮絶に邪魔をしてきた。本人は手伝いのつもりなのだろうが辛く、若干パニックになり、妻を呼んで庭から追い出してもらった。

 

 パニックになりやすいオッサンとして生きていくのはしんどい。庭でびしょ濡れになりながら「おかーさーん!助けてー!娘がー!」と叫ぶオッサンに近所の人は何を思ったろうか。

 

 体力が戻ったら娘と大きな公園で遊びたい。サッカー、ペダルなし自転車、フリスビー、アスレチック…。

2020/3/21 筋肉痛

 朝から筋肉痛が酷い。昨日久々に庭仕事をしたら下半身、太腿から腰にかけてが痛い。

 今日はなんだか元気がなくて、庭仕事の続きをした後は、子どもと少し家の中で遊んであとはぐったりしていた。

 遅めの昼ご飯を食べて、また寝る。妻と娘は散歩がてら買い物だと連れ立って出かけて行った。父親も新しくできた駅前の店に行くと出かけ、ひとりで夕方寝ていると、物音と共に突然寝室の扉があいた!恐怖で飛び起きたら何故か弟の長女が我が家に来ていて驚いた。家の外から弟一家の声がするが、妻と娘は不在だと伝えると出て行った。

 遅めの昼食だったのと、運動量が少ないからだろう、食欲がなく夕飯は食べなかった。リンゴだけ家族と食べてぐったりしている。

 

 整髪料というかワックスがもうほとんどないから、明日は出かけて薬局に行こう。

 

 なんだか僕はいつもぐったりしている。